【情熱】をつないだストーリー
社長! 彼、頑張っているんでメシ連れて行って上げて下さい!(東京営業所)
配送の仕事が終わり、本社で安全会議。その後打ち合わせがあり、夕方遅くなってしまいました。
あるドライバーが社長の打ち合わせ終わるまで待っていると伝言が。これはあまり良い話ではないかもなと予感がしました。打ち合わせが終わり、待っていたドライバーに声を掛け、会議室で対面。何を言われるのか、少し緊張して待っていると。
「社長、○○君と△△君は文句を言わずに、とても頑張っています。あの二人は会社の宝です。メシでも連れて行って上げて下さい!」予想していたことと全く違う話で、ある意味拍子抜けしてしまいました。
会議が終わり、自宅に帰っても良いところを、わざわざ遅い時間まで社長を待って、仲間の二人の仕事ぶりを報告してくれました。
後にその二人を含め皆で食事に行ったのは当然ですが、仲間を大切にする社員同士の「情熱」にとても感動し、彼らのような存在を増やして行くことを決意した大切なワンシーンです。
高さが足りない! ツルハシで掘るぞ!
まだオート三輪が現役で活躍している時代。集団就職で山形から上京し、若林運送の門を叩いた入社50年以上のドライバーの伝説。
エンジンの始動方法も違い、寒い冬は車の中で練炭を燃やして暖を取る。今ではとても考えられない時代です。
ある日東京から岩手県宮古市まで平ボディで鉄骨を運ぶ仕事。舗装もされていないガタガタ道を、助手と二人で長距離運行の出発。東北に入った辺りでしょうか。トンネルに差し掛かりました。すると、どうも荷台に積んだ大きな鉄骨の先端が、トンネルの高さよりも高いことが判明。そこでレジェンドドライバーが取った行動は。。「おい、ツルハシ持って来い! 地面掘るぞ!」
助手に指示を出し、なんと地面を掘り始めました。
今なら、迂回路を探すか、お客様にお断りして輸送を断念して持ち戻るかの選択をするでしょう。
しかし、当時は道路が整備されておらず、迂回路はありません。そこでドライバーはタイヤの空気を少し抜き、地面を掘り、全体の車高を下げ、無事トンネルをくぐって通過したのです。お客様が「情熱」をもって作られた製品を、「情熱」で応える。我が社のレジェンドストーリーです。
〜中堅1名・新人2名で繁忙期を乗り越えた!〜 (仙台営業所)
石油元売I社様の重油輸送の仕事。当初は2台の車にベテランドライバーが2名で重油輸送を担っていた。定年を迎え1名が退職し、もう1名も原町の地元に帰るため、惜しまれながら退職。そのため、新たに2名が夏頃に入社した。 入社後、ベテラン社員から指導を受けつつも、トラックの経験もまだ浅い二人。同じ業務を担当する中堅のドライバーも、仙台エリアでの重油輸送の経験はまだ1年。彼らが冬の繁忙期を乗り越えられるのか?ベテランの抜けた穴が大きく感じられ、所長も心配していた。 ところが、心配は杞憂に終わった。
繁忙期に入ると輸送数量も増え、3台体制になり、3名がフル回転で配送する。
初めての納品先も多く、冬になれば慣れない凍結路面。滑って登れない坂もある。労働時間も長い。新人ドライバーの一人は、子供が生まれたばかりで、眠るリズムがつかめなかった時期もあった。
それでも毎日毎日帰庫してから、納品先について情報交換。新人ドライバーは一言も聞き漏らさないようにメモを取りながら聞く。先輩もプライドを横に置いて、わからないことを後輩に聞く。閑散期の荷卸訓練で納得するまで先輩社員に教わって来た努力も実り、無事に春を迎えることが出来た。
その後、彼らの活躍で、重油輸送は仙台営業所の主力商品となり、他のお客様からも引き合いが増えて行った。繁忙期を超えた後、お客様の会議の席、営業所長は「事故のない若林さん」と声を掛けて頂いた。
〜九州出荷に対応せよ〜 (品川倉庫運輸・九州営業所)
東日本大震災の余韻が残る2011年秋頃。関連会社の品川倉庫運輸のお客様であるS社様の担当部長より、「もしかしたら九州から出荷することになるかも知れない」と話があった。九州に基盤のない我々にとっては、今までなら関心の対象外の話。しかし、日本中で「サプライチェーン」の見直しが話題となり、生産を分散する重要性が議論されていた。そこで、実現性は低いかも知れないけれども、下見だけしておこう、と九州に出張。社長と若手ドライバーの二人で出荷基地を偵察。
それから半年後の2012年8月終わり。にわかに九州のプロジェクトが盛り上がって来た。「やる気あるなら、計画を出してみて」と担当の方よりお声が掛かった。すぐに社内で打ち合わせ。車両は何台持っていけるか?車庫をどうしよう。車庫がないから、ドライバーもいない。ないものだらけ。しかも準備期間はたったの3ヶ月。急遽、再び九州に飛び、トラックドライバー甲子園の仲間の紹介をもらい、他の運送会社の車庫を間借りする承諾を取り付け、9月半ばに計画を提出した。「ヨシ、じゃ、品川さん進めて下さい」ついにゴーサインを頂いた。
そこから九州営業所のドラマが始まった。新営業所長にメタノール輸送に最も長く携わって来たベテランドライバーが「俺しかいないでしょ」と名乗り出てくれた。このプロジェクトがうまくスタートできた大きな一歩だった。長年連れ添った奥様とも話をし、そして飼っている猫ちゃんたちも連れ、転勤した。
新所長とドライバー採用活動を始めた。商店街の一角にある貸会議室で面接。来てくれた10名の応募者の中から、2名が立ち上げメンバーに来てもらうことになった。社名も聞いたことない。事務所もない。タンクローリーもない。そんな中会社を信用し、仲間に加わってくれた。 慣れない飛行機に乗り、東京で約2ヶ月の教育が始まった。入社2年、メタノール輸送も2年のメンバーも指導した。指導をするのも初めて、自分の仕事もまだ覚えて日が浅い。それでも懸命に指導した。
そして、いよいよ2013年1月中旬。メタノールを運んだ船が門司の出荷基地に入船。ドキドキしながらも、注文に期待の胸を膨らませた。1件注文が入った。3人で行きたいところだが、助手席には一人しか乗れず、気持ちを抑えて所長は車庫で待機。無事初回納品が完了した。帰庫した時は、自然と三人から笑みがこぼれた。
〜ガラス工場に電力供給を続けろ〜 (旧原町営業所)
東日本大震災が発生し、福島県南相馬市にあった旧原町営業所は津波ですべて流され、メンバーは直後に発生した原発事故から緊急に避難せざるを得なくなった。東京、仙台、遠くは三重県まで。
一方で、お客様も震災対応に追われていた。大手商社M社様より一本の電話が入った。「鹿島(茨城県神栖市)にある火力発電所に重油が必要です。ガラス工場が被災地に向けたガラスの生産が出来なくなってしまうんです。」津波で護岸が破壊され、修復までは船からタンクローリーでの輸送に切り替えたい、という要望だった。
しかし、出荷地は千葉県袖ヶ浦市。一番近くの東京営業所には重油のタンクローリーはない。ドライバーもいない。そこで白羽の矢が当たったのが、旧原町営業所のメンバー5名。避難先の家族の元を離れ、駆けつけてくれることになった。
緊急時とはいえ、「絶対にコンプライアンスは守って欲しい」と言われていたため、手分けをして消防や警察、排ガス規制の役所等に相談。手続きする度につまずき、出荷基地の手続きも困難の連続だった。それでも懸命に対応した。
当時はすでに引退していた元幹部が応援に来て、手続きをしてくれる。間もなく定年を迎えようとするベテランドライバーが先頭を切って、積み込み設備や構内ルールの教育を受け、後輩の指導に当たる。所長が納品先の火力発電所に行き、打ち合わせ。突貫工事で増設されたタンクローリー受入設備等の環境を確認する。配車担当者は期間内に納める大量の輸送計画を練る。それぞれの役割、立場で全力で対応した。
輸送が始まると、お借りした建設会社の社員寮で単身生活をしながら、毎日袖ヶ浦と鹿島を2往復。2ヶ月半、一度も事故やトラブルが発生しなかった。
プロジェクトが終わり、報告と謝意を伝えに、M社様責任者にご挨拶に伺った。そこで言われた言葉。〜「自分がやって来た仕事の中で一番印象に残る仕事だった。あの後火力発電所で表彰式があって、石油元売会社さんが表彰されたんだよ。だけどね、あれは『若林運送だろ』って思ったよ」〜